商人になる事を志した浅野総一郎

江戸時代の嘉永年間、現在の富山県にあたる当時の越中国に生まれた浅野総一郎は、一代で浅野財閥という大財閥を築いた傑物として知られています。

浅野財閥は戦後の財閥解体で消滅していますが、かつて財閥の一部であった企業は、セメント・鉄道・海運・鉄鋼などのさまざまな業界でいまもトップランナーの一角を占める企業となっています。

浅野財閥の実態はかなり特徴的で、たとえば江戸時代から続く老舗の伝統的な地域社会への影響力、あるいは特定の政治家や軍部とのパイプによる政商としての影響力などといった、他の財閥にありがちな特徴をもたず、浅野というリーダーの商売上の才覚と力強いリーダーシップによって築かれたところが大きく異なります。

これは実は財閥解体後に他の財閥のような実質的復活にひとしい大規模な企業グループが成立しなかった原因でもあり、芙蓉会も旧安田財閥が中心で、メインバンクとして安田系列の銀行を利用していた縁でその仲間に加わったという経緯があります。

ともあれ浅野総一郎がいなければ浅野財閥そのものも成立しなかったことに変わりはないわけですが、同氏の一生はまさに事業のために生きたという側面が強いものだったことは確かです。

今の富山県で出生した浅野総一郎は、実家が医者であったものの、同胞が家督を継ぐことになったために町医者のもとに養子に出され、そこで医業を学びます。

ところが医業にはあまり本人としては興味がなく、北前船によって巨万の富を築いた銭屋五兵衛という豪商にひかれて商人になることをこころざし、養親のもとを飛び出してしまいます。

その後海産物を転売したり、農業向けのムシロを販売したり、醤油の醸造にたずさわったりと、さまざまな事業を手がけますが、故郷での仕事は天候不順をはじめとしたトラブルが続き、借金を重ねることとなります。

実業家の渋沢栄一との出会いが転機となる

いったんは資産家の娘と結婚して婿養子に入るものの、借金がもとで離縁されてしまい、実家にも借金取りがおしかけるありさまで、故郷から東京に逃れたのが23歳のときでした。

この上京後からの生涯は、大実業家としての面目躍如といったところで、故郷でくすぶっていたのとはかなりの違いがみられます。

まずは滞在先の旅館のあるじのアドバイスをもとに、夏場に冷たい砂糖水を販売して元手を稼ぎ、その後は竹皮の包みや薪炭、石炭などの販売を次々に手がけて財産をなします。

みずから求婚して働き者の妻を迎えたのもこのころのことで、以後は二人三脚で事業を進めて大きな成果を上げます。

特に当時の横浜の公営の瓦斯局が処分困って持て余していたコークスやコールタールのリサイクルに成功したことで資産を増やし、世間からも廃物利用の王様という異名をとるほどに注目されるきっかけとなりました。

コークスは石炭ガスを生成する過程で生じる副産物ですが、これをセメント会社に持ち込むとセメントを焼成する際に使う石炭の代用品となり、コールタールも伝染病を予防するための消毒薬や防腐剤の原料として活躍することとなりました。

同氏の一生にはこのようにリサイクルのアイデアを実行に移して成功した事業も少なくはなく、固定観念にとらわれずに突き詰めて考えることのできる能力があったことがうかがえます。

その後コークスの売買を通じて知り合ったのが、新一万円札の肖像画に登場する実業家の渋沢栄一ですが、彼の援助もあって明治時代のはじめに官営深川セメント工場の払い下げを受けたことも人生における重要な転機となりました。

外国航路に参入する構想から交渉を成し遂げる

渋沢栄一の目にはセメント業はまだ当時の日本にとっては時期尚早と映っていたようですが、浅野は既存の建物を不燃化したり、大規模な構造物をつくったりするにはセメントが不可欠の存在であり、やがては成長産業のひとつになるはずだという強い信念をもっていたといいます。

実際に浅野の読みは正しく、このことをきっかけに浅野セメントという財閥の中心をなす企業へと成長を遂げることになります。

そしてセメント業の成長は、すでに知己となっていた渋沢栄一のほかに、安田財閥を率いていた実業家の安田善次郎による支援を受けることによってもたらされたともいえます。

以後も渋沢栄一と安田善次郎という、歴史に名を残すような実業家との関係が、事業を推進する上での大きな支えになったことは確かです。

セメント業は関連産業の裾野も広く、鉱山業や海運業、鉄道業などの分野へも次々と新会社をつくって進出する橋頭堡となりました。

この流れのなかで外国航路に参入する構想が生まれ、交渉のために欧米を歴訪したのが浅野総一郎の次なる転機となります。

洋行の経験を通じて、日本では港湾整備が立ち遅れており、効率的な生産活動を営む環境にないと悟った浅野は、東京湾築港と沖合の埋立による工業団地造成に熱意を傾け、紆余曲折を経ながらも昭和のはじめにその実現に成功します。

これが今でいう京浜工業地帯のはしりであり、浅野セメントの川崎工場をはじめ、各種製造工場や製鉄所、造船所などがこの場所に進出し、日本全体の工業化を推進する上でも大きな一歩を刻み、事業を見届けると82歳で亡くなりました。

浅野総一郎逮捕